身体感覚というものは、その名の通り、体で、感覚で理解できるものなのかもしれないが、それはあくまで感覚であり、普遍的なものとはいえないこともある。

自分の経験から、話の構成が始まることもあり、宗教に近いと思うこともある。



施術においても、身体感覚は重視されるが、それはあくまでその人たちの世界の話で、必ずしも正解とはいえない。

それでは、なぜ身体感覚的なものが、現代の一部で受けるのかというと、それは現代的な論理や科学性に限界を感じている人に受けるのかもしれない。あるいは感覚的に共感できるものがあるのかもしれない。しかしそれは宗教に近く、生理的に受け付けないという人も多い。


なぜ生理的に受けないかというと、それはその身体感覚論には、個人の経験に基づく特定の思想がその奥にある場合が多く、 それが違和感としてあるのではないだろうか。



これは手技療法の施術テクニックにもいえる話かもしれない。手技療法は身体感覚を重視することも多く、それが理論的なものでも、実際は、個人の経験、実践から生まれていることも多い。だから科学的とはいえず、宗教といわれることもあるのではないだろうか。 


手技療法が若い人にあまり受けないのは、病気や体の問題で苦しむ人や健康や体に興味がある人が中高年に比べると少なく、感覚的にリアリティが感じれないと思われるからだ。簡単にいうと、年寄り臭い、または中2病臭いと感じて敬遠してしまうこともあると思う。


必要以上に依存することもないのかもしれないが、手技療法も宗教臭い部分があり、若い人も洗脳されてしまうこともある。特に真面目な人や心身が弱っている人などははまりやすい。



個人的に違和感をあるのは、おそらく「身体感覚を取り戻す」というところなのだろう。取り戻すということは、過去の話につながってくる。そしてそれは過去の全面的に近い肯定感がある。だから過去の一部を切り取り、過剰に美化していると思われることがあるからだ。


そして、その過去の不都合な部分から目をそらし、さらに正当化するために、個人的な都合のよい幻想、感覚に基づく論理構成をしようとする点である。たとえば、昔の日本人というような大きく曖昧な枠組みで考えて、全体的に無理やりまとめようとするところなどである。


それが教育やビジネスの現場に過剰に持ち込まれることに対しては、強い違和感がある。