クラニオ・ノート

頭蓋仙骨療法の学びと日常生活のブログ

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身体感覚というものは、その名の通り、体で、感覚で理解できるものなのかもしれないが、それはあくまで感覚であり、普遍的なものとはいえないこともある。

自分の経験から、話の構成が始まることもあり、宗教に近いと思うこともある。



施術においても、身体感覚は重視されるが、それはあくまでその人たちの世界の話で、必ずしも正解とはいえない。

それでは、なぜ身体感覚的なものが、現代の一部で受けるのかというと、それは現代的な論理や科学性に限界を感じている人に受けるのかもしれない。あるいは感覚的に共感できるものがあるのかもしれない。しかしそれは宗教に近く、生理的に受け付けないという人も多い。


なぜ生理的に受けないかというと、それはその身体感覚論には、個人の経験に基づく特定の思想がその奥にある場合が多く、 それが違和感としてあるのではないだろうか。



これは手技療法の施術テクニックにもいえる話かもしれない。手技療法は身体感覚を重視することも多く、それが理論的なものでも、実際は、個人の経験、実践から生まれていることも多い。だから科学的とはいえず、宗教といわれることもあるのではないだろうか。 


手技療法が若い人にあまり受けないのは、病気や体の問題で苦しむ人や健康や体に興味がある人が中高年に比べると少なく、感覚的にリアリティが感じれないと思われるからだ。簡単にいうと、年寄り臭い、または中2病臭いと感じて敬遠してしまうこともあると思う。


必要以上に依存することもないのかもしれないが、手技療法も宗教臭い部分があり、若い人も洗脳されてしまうこともある。特に真面目な人や心身が弱っている人などははまりやすい。



個人的に違和感をあるのは、おそらく「身体感覚を取り戻す」というところなのだろう。取り戻すということは、過去の話につながってくる。そしてそれは過去の全面的に近い肯定感がある。だから過去の一部を切り取り、過剰に美化していると思われることがあるからだ。


そして、その過去の不都合な部分から目をそらし、さらに正当化するために、個人的な都合のよい幻想、感覚に基づく論理構成をしようとする点である。たとえば、昔の日本人というような大きく曖昧な枠組みで考えて、全体的に無理やりまとめようとするところなどである。


それが教育やビジネスの現場に過剰に持ち込まれることに対しては、強い違和感がある。










 

先日、1日風呂に入らなかったのだが、1日風呂に入らないと翌日が気分が悪い。

体は皮脂でべたつき、髪の毛もベタベタする。冬である。夏ならもっと悲惨かもしれない。

手を洗っても、 顔を洗っても不快感は取れず、1日不快な気持ちで過ごすことになった。


これは代謝はよく、老廃物が外に出たと考えることもできるのかもしれないが、余計なもの(飲食物)を取り過ぎているのかもしれない。


最近は、食事のあと、すぐに歯を磨かないと気持ち悪いと感じることが増えてきた。これも、感覚がよくなったということより、神経過敏、老化による知覚過敏、潔癖症の類ではないかと思う。


加齢臭も気になる年になってきたが、食生活を気をつけることである程度防げるといわれている。匂いの強いものを食べると体臭にも影響が出る。たとえば、にんにくを食べ過ぎると体からにんにく臭がすることもあるらしい。だからといって、甘いものを食べても甘い匂いになるわけではない。あとは入浴だろう。













人口の減少は、たぶんそのうちまずいレベルになると思う。

怖いのは、人を消耗品として扱う社会である。壊して捨てるという考えである。

その結果生き残れるものは、強い者であるが、強い者の理屈や意見が何でも通る世の中が今以上に形成されるような気がする。


強くなるために、健康を求める人も多くなると思うが、それもどうもおかしな方向、目的になりつつある。




慢性の風邪が一年中流行しているのは、細菌やウィルスが強力になっただけではなく、人間が常に疲弊しているのではないかと思うことがある。


最近は、痛みというより、だるさや疲労感、無気力などは増えているような気もする。痛みに関しても炎症(微熱も含む)の原因は、明らかな外傷でない限り、細菌やウィルスだと思うことが多い。そこにだるさや疲労感が伴っていることが多い。よってそれは免疫力の低下とも考えることもできる。そして、それは脳や自律神経の機能低下とも考えることもできる。


脳や自律神経の機能が低下すれば、筋肉の収縮や弛緩が起こり、姿勢が崩れることも多い。体の偏りが強くなり、より筋肉は疲労し、収縮しやすくなる。その結果、炎症が起こり、痛みが発生することもある。


免疫力の低下の原因は、いろいろあると思うけど、脳や自律神経の機能が低下している原因は、重労働とネットではないかと思うこともある。それに対して、手技で自律神経にできることは、対処療法であると思い始めた。ただそもそもそういう人はあまり手技を受ける機会はないような気もする。特に若い人は。


そう考えると、どこかのセミナーや勉強会で習った理屈を鵜呑みにして、「根本療法」「原因療法」を声高に叫ぶ人たちに疑問を感じる。ただ僕自身もそういうところがある。何か権威にすがりたいという心の弱さがあるんだろう。自己啓発や新興宗教にはまる人とたいして変わらないと思う。


手技の需要が若い人になくなると手技が衰退する可能性もある。ただ小顔矯正みたいなものはなくならないと思うけど。それから怪しげなエネルギー療法も。その中にクラニオが変形的に含まれる可能性もある。



健康法の中には、「疲れにくい体を作る」という意見もあるようだが、ブラック企業のようなところで働いている人にそんなことを言っても説得力がないだろう。現実的に考えると、「疲れにくい体を作る」ことはほとんどの人には不可能だと思う。年に勝てないし、世の中は厳しい。寛容さがなくなり、殺伐とした世の中であれば、疲弊するのは当然だと思う。


「強い身体を作れば、どんな困難にも立ち向かえる」という考えには、現代的にはやはり無理がある。この理屈は強者のものだろう。しかしこの考えが最近、流行り出しているのが気になる。


弱い人が無理して、強くなろうとするとかえって心身のバランスを崩すという例はよくある。











 

どうも、時代的なものか、健康に強さを求めている人が多いように感じる。

結局、強くなくては生きられないということかもしれない。

しかし、強くなることは人によっては、疲れることもある。 

自分ひとりで勝手にやる分には、自己満足であっても自己責任でやればいい。それは個人の自由だと思う。ただそれを声高に主張して、指導し始めるとおかしなことになると思う。


健康においても、スパルタ指導があるが、指導者側の傲慢さが鼻につくことが多い。パラハラやブラック企業の論理と変わらないことが多い。 そういうのは徹底的に批判するか、相手にしないかどちらかにした方がいいと思う。

教育においては、ある種の強制は必要だろう。しかしそれを行う指導者がどうにもならないことはよくある。そこに暴力性が伴うことは多い。殴られていた側が殴る側に回ることはよくある。今の教育現場もそういうこともあるかもしれない。


脳筋といわれる人は、それ自体が病的なものなので、基本的に話が通じないし、治らない。だから関わらない方がいいかもしれない。







 
 

手技でも生き方でもそうかもしれないが、極度にスマートさやシンプルさを求めてしまうとかえって不自然で不自由なことになるかもしれない。


効率的、合理的な考えは、極端に必要のないものを切ってしまうようなこともあるため、時に本当に必要なものを失ってしまうこともあるし、余裕がなくなる。


自然治癒力を重視する点から、自然が云々という考え方もよくあるが、自然が善という前提が本当に正しいのかわからない。自然には理不尽さや厳しさもあるような気もする。

人間は進化する過程で、自然と共生してきたかもしれないが、自然に手を加えて、自分たちのいいようにしてきた部分もある。それは改良といえば、よいように聞こえるが、破壊ともいえる。


手技の世界でも、自然治癒力に任せるため、必要以上のことはしないという考えもあるが、局所につまりや引っかかりがある場合、そこを直接操作し、その部位の異常を解消することも有効かと思われる。これは医療では普通に行われている。対処療法といわれることもある。


自然治癒の届きづらい範囲は、人為的に手を加えるという考え方があってもいいと思うし、それは手技でもあり、否定することはできない。


また手技の世界でも組織の破壊はある。破壊による再生も有効なこともある。ただこれは医療行為または医業類似行為に含まれると思う。



自然にロマンや幻想を求めてしまうこと自体、自然に対する冒涜なのかもしれない。


スマートさやシンプルな生き方がその人は向いていないこともある。


要するにガラに合わないことは続かないし、無理が出てくる。


自由自在に適当に生きるくらいがちょうどいいのかもしれない。


そしてそれは人それぞれ違うと思う。



 


 

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